首塚(下小鳥町)の石造物 [石造物]
首塚 高崎市下小鳥町
徳川家康の孫の高崎藩主松平丹波守康長が、下小鳥村民に重い年貢を課したところ、村民が反抗したらので、殿様は藩の役人、武士たちに加えて安中藩の侍達までも動員して、罪もない村人達の多くを殺害し、この地の穴に死体が埋められてしまった。この場所はその後、切干塚とか首塚と呼ばれるようになった。たという言い伝えをもとに明治34年建立された、慰霊碑である。碑文によれば、この事件は、藩主とその役人武士たちが、あまりにひどい政策を行ったことに対し、農民は強く反目する、そしてこれを怒った役人武士たちは、元和3年(1617年)正月4日、この村の老若男女全員を殺害してしまったというのである。そして殺害された村人たちの状況や心情を推量描写し、その心をいたみ万感をこめて霊を慰めている。撰文は真塩紋弥で群馬町生まれ、明治13年(1880年)秣場騒動の指導的役割を示した人という。口伝されている、この事件を裏づける資料は現在のところ発見されていない。碑裏の小さな自然石「三界万霊塔」は、昔からの供養塔の様です。
三界万霊
三界万霊
タグ:史跡
コメント 0