渋川市北牧、南牧の史跡 [石造物]
人助けのカヤ(へだまの木) 市指定天然記念物 渋川市北牧
人助けのカヤ(へだまの木) は、天明3年(1783年)7月8日、浅間山の大噴火による溶岩流が吾妻川をせき止め、濁流となって流域の村々を襲い、田畑や民家に甚大な被害を与えた。 吾妻川河岸にある北牧地区の民家も流出し、このカヤの木によじ登った多くの人が難を逃れたことから、「人助けのカヤ」と呼ばれるようになりました。このカヤの木は、実と葉の匂いから、地元の人々から「へだまの木」とも呼ばれています。
大黒天
北牧宿 渋川市北牧
北牧宿は寛永20年(1643)に開設された三国街道の宿場町で高崎宿から4宿目、金井宿の次の宿場町で、吾妻川対岸の杢ヶ橋関所を控えていることから、北牧宿を利用する人が多く8軒の旅籠と160余軒の家屋が軒を連ねていました。草津温泉に続く草津道と真田町(長野県上田市)へと続く真田道、沼田街道西通りの白井宿とを結ぶ街道の分岐点でもあり、物資の集積場としても発展しました。
北牧宿は芝宿・古宿・新田宿・中宿・道場宿に分かれていましたが、現在は新田宿に水路が復元されています。
北牧宿本陣は代々寺島家と山崎家が交代で勤め、寺島家は現在も敷地には土蔵や洋館が建ち、長い白壁の塀は当時の繁栄を感じさせています。
杢ヶ橋関所跡 群馬県指定史跡 渋川市南牧
杢ケ橋関所:上州では碓氷の関所に次ぐ重要な関所で、元和6年(1620)に番所として置かれ、寛永20年(1643)より三国街道筋の川の関所となり、「入り鉄砲に出女」と言われるように、江戸に持ち込まれる武器と江戸から出る女性は、特に厳しく取り締まられたそうです。当初安中藩井伊家が、その後寛文7年(1667)には高崎藩が警固にあたり、地元からは定番3人が選ばれ、世襲で勤務にあたったそうです。現在のご当主は当時の定番役の子孫で、定番屋とよばれた茅葺の役宅は江戸後期に建てられたとみられ、土地や家の歴史を世代を超えて受け継がれている素晴らしい史跡です。
当時は、関所跡の上流に、吾妻川の渡しがあり、北牧宿へ通じていました。
コメント 0