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総社古墳群と山王廃寺跡 [古墳]

 群馬県には多くの古墳が現在でも残されていて、優れた内容のものが多く、古墳とその周辺から出土した遺物などが国、県などから史跡、文化財に指定されているものも多数見られる。このことから、古代東国文化の中心地域であるように言われる。
 群馬県下の古墳は昭和10年に群馬県下一斉古墳調査報告書である上毛古墳総覧では、8423基が記載されている。また、昭和36年ころの県教育委員会の調査では665か所(古墳群を1か所と数えた)でした。この間に多くの古墳が消滅し、残されたものも墳丘を削り取られるなど、構築当時の型が維持されているものはごく少数でした。
 群馬県における古墳の出現は、4世紀後半から末頃に渡良瀬川下流域、矢場川流域、蛇川流域、粕川流域、広瀬川流域、井野川流域、烏川中下流域、神流川流域、鏑川流域などの地域に見られるものが最初です。これらの地域に勢力を伸ばし、小地域圏を確立した首長の成長が、これらの地域にあったと思われる。しかし、弥生時代から村落社会が発展したと思われる西毛地区では、円墳が最初に出現、ところが、弥生時代にはほとんど未開の地だったと思われる前橋市南部から太田市にかけての平野地域とでは、天神山古墳(前橋市)、将軍塚古墳(高崎市)、軍配山古墳(玉村町)、頼母子古墳(太田市)、八幡山古墳(太田市)、などの前方後円墳、前方後方墳、大規模な円墳として出現している。

 竪穴式の埋葬主体部の古墳は6世紀中葉頃を境に、横穴式石室が採用されることになった。王山古墳、前二子古墳、正円寺古墳(前橋市)、簗瀬二子塚古墳(安中市)など、赤城山南面地域から西毛地域に分布するそれらは、その初期の構築とされる。

 7世紀における古墳の造営は6世紀代より広い階層が営む群集墳が発展し、家族墓としての性格が強くなり、山間部にも古墳が広がった。現在残されている古墳の多くはこれらの古墳と思われる。また、古墳分では、地域圏の独自性を示すような大規模な古墳は総社古墳群の他には見られない、墳丘は小型化するが精巧な載石切組積の横穴式石室の古墳が群集墓との違う様相で各地に出現した。大化の改新後の中央集権型国家が成立に伴い、古墳の造営は権力の象徴としての性格を失った。その後、7世紀後半になると、多くの豪族は氏寺として寺院建築を行うのである。そんななか、各地に世襲的に勢力を保った豪族たちは、律令制政治制度の中で、地方官僚として力を維持したものと思われる。7世紀前半から8世紀初頭の総社古墳群中の愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳などは、他の地域名は無い充実した規模と内容で造営されている。つまり、上毛野国で最も勢力を保持した豪族たちが構築した古墳と思われ、総社古墳群の西にある7世紀後半に創建された県内最古の寺院の一つである山王廃寺はその勢力を保持した豪族の氏寺の一つだったのだろう。
 
山王廃寺01.jpg
    山王廃寺跡(市指定史跡) 現在は日枝神社
 
石製鴟尾 .jpg
    石製鴟尾 国認定重要美術品 
 
上野国山王廃寺塔心柱根巻石.jpg
     上野国山王廃寺塔心柱根巻石 国指定重要文化財 
 
搭中心礎石.jpg
    搭中心礎石
 
 山王廃寺 伽藍復元想定図.jpg
    山王廃寺 伽藍復元想定図 (金堂と搭は確認されたもの)
 
 山王廃寺00.jpg山王廃寺99.jpg山王廃寺98.jpg
 
 
 

 
 

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